SADについて思うこと

社会不安障害(SAD)って病気だけど、患ってる自分なりに思うことがあります。SADに限らず、不安症って不安が強いあまりに逃げてしまうことから始まります。私の場合は人前での発表なんかで失敗したらどうしようって不安が強いあまりに逃げてしまいます。大人数の雑談でも同じ。裏を返せば
、人前では上手にしゃべれなきゃいけないって固定観念が強すぎるのです。でも、固定観念をなくすためには不安な状況を経験して、人前ではそれほど上手く喋れなくても大丈夫なんだ!って気づくことしかありません。つまり、逃避していては何の解決にもならない、むしろ悪化、結果SADというわけです。

この種の病気について甘えであるという批判は常についてまわります。SADのわたしが言うのもなんですが、やっぱり甘えも入っているなあと思うのです。だって、今まで逃げても大丈夫な環境で育ってきたのです。そして環境に甘えて逃げてきたことは事実なのです。やってもやらなくてもどちらでもいい。ならやらないでおこう、といった具合に。傷つくのが怖かった。そこは認めざるを得ません。しかし、それが生まれ持った臆病の資質に基づくことも事実。遺伝子は選べません。過去を思い返してみると、ピアノのコンクールで失敗してその後逃げたこと、中学時代に発表姿をからかわれて逃げたこと、数え上げればたくさん逃げました。事実としてこれらのことは受け止めて反省しています。親もそれを許していた。育った環境、自分の臆病さが原因で今の自分があることも仕方のないことなのです。

でも、今はなおしたいと切実に思っています。上の批判も当然と受け止めながら治したいのです。そのために認知行動してるし、バイトだってちゃんと行ってる。でも、20年近くかけて形成された固定観念は2年や3年でころっと変わるほど甘くはないのです。新しい人間関係を築くのが苦しい。当然できるべき仕事がなかなかできない。バカにしていた自己啓発本を読んだり会話本を読んだり…。社会に出る前になってこの生き方は問題ありなんだって気づく有様。今の環境から逃げることを懲りずにまたわたしは考えています。立ち向かう勇気を持たなければ。人生は結局1人。自分が頑張るしかないのです。楽しいキャンパスライフなんか捨てて、今を治療のための踏み台にしよう。ここは失敗する場所。本気で治りたいなら大学で精一杯失敗しておこうと思う今日このごろです。